冬子さん(6)

                       

                                  カメ太郎

 

 

 

 10月3日、母の誕生日だった、冬子さんは夜9時ごろ、僕の長崎の実家に電話をして母に誕生日おめでとうございますなどとお喋りした。僕は今日は当直で冬子さんからはそのことを病院から冬子さんに電話を掛けて知った。僕が母の誕生日が今日であると午後になって気付き、冬子さんに電話した。冬子さんは戸籍にそのように書いてあったみたいだったのを忘れていたと後悔しながら何かを贈ろうと自分に言ったが、父の場合は父の日も含めて父が大好きなお酒を贈らなければならないが、母のときにはしなくてよくて、いつもしていないことが多いことを告げた。

『今、姪浜の電車の中なの。今日、天神に出たら友達と出会って、そしてこんなに遅くなったの。今日は実家はもう遅いから鍵が掛かっているかもしれないから実家には帰りません』

 僕が今日は実家に帰るように言っていたが冬子さんはあまり実家に帰っていると帰りすぎると言われるのであまり帰りたくないと言っていた。

 9月2日にお互いの家族だけの会食を唐津のホテルで行い、それが結婚式代わりになった。僕の方からは父と母だけだった。冬子さんの方からは冬子さんの両親と長男と次男夫婦が来た。土曜日、仕事が終わってから近田さんにやるパソコンを2台クルマに積み、近田さんにそれを届けて父と母の居る実家に帰ったのは夜の1時を回っていた。それからお酒を飲みながら母が造った豪華な料理を食べて風呂に入って寝た。朝は8時半に出掛けた。高速を通り、しかし降りる予定だった多久のインターチェンジを見逃し、次の佐賀大和で降り、三瀬峠を越えて、結局20分ほど遅れて11時20分に冬子さんの家に着いた。結納のときを20分遅れた。

 そして1時から取ってある唐津のホテルへと遅れながら向かった。その唐津のホテルは冬子さんがよく友だちと一緒に温泉と食べ放題のバイキングに来ているホテルだった。料理が次々と運ばれてきた。いつもはたくさん食べる僕は昨夜、夜の1時頃、たくさん食べたのがまだお腹の中にあり、いつものようにはとても食べきれなかった。

 4時頃、予定より1時間遅れてお開きとなり、僕は父と母をいつものようにクルマの後部座席に乗せて長崎へと向かった。高速へは東彼杵から多良見まで乗っただけだったが、2時間半で実家まで帰ってきた。それからまた近田さんのところへパソコンを持ってゆき、近田さんのところで時間を潰してしまい、夜12時頃、前原の今度から冬子さんと一緒に住むアパートに着いた。帰りはものすごい雨だった。2回、対向車に水を打ちかけられて前方の視界が全く効かなくなった。

 僕は月曜の朝は自分一人で起き、病院へ仕事に行った。

 僕と冬子さんが一緒に住み始めたのは月曜の夜からだった。月曜日は院長の当直の日で、いつもなら自分が当直しなければならないはずだったが、その日は院長が当直をし、自分は帰ることができた。

 僕と冬子さんが初めて一緒に夜を過ごしたのはその月曜日の夜、9月3日の夜だった。冬子さんは昼頃、アパートに自転車で来たそうだ。そして僕が夕方、病院から帰り、僕たちの新婚生活がその日から始まった。その夜、冬子さんの手料理を初めて食べた。でもセックスは疲れていてしなかった。僕たちは婚前交渉の期間が長かったし、子供はまず産まれないという考えがあった。

 僕たちは別々の部屋で寝た。僕はとても暑がりだけど、冬子さんは寒がりだ。僕の部屋はいつも冷蔵庫のようだと冬子さんは言っていた。冬子さんの部屋を造っていた。冬子さんは畳の部屋で寝たいと、仏間にしていた部屋を冬子さんの部屋にした。仏壇は入ってすぐの部屋に移した。その畳の部屋は北向きで寒いのに冬子さんは『畳がいい』と言うので、冬子さんが荷物を運んでくるときから冬子さんの荷物は畳の部屋に運んでいた。9月2日の3日前の木曜日、院長に話したらデイから2人手伝いを送ってくれて冬子さんの家に行き、バスで大きな荷物を一気に運んだ。1ヶ月後の今でも言う。『本当に私が結婚するのか、非現実のような感じがしています。本当に先生と結婚するのか、夢の中のような感じがしてます。私は一生結婚しないと思っていたのに』

 

 

saturday,oct,6,2001

 今、午後4時49分。夕方、冬子さんとともに長崎の僕の実家に行くことになっている。冬子さんが長崎の僕の実家に行くのは始めてだ。僕は冬子さんが僕の実家に行くのがかなりのストレスになるのではないかと思い、遠慮して言わないでいた。今夜は自分一人で行く予定だった。でも、さっき電話すると冬子さんも行くという。

 たしかに僕の社会恐怖、一人で運転する方が疲れない。それにクルマの中で題目を上げられない。でもそれだから題目だけ5分間だけでも上げてそして長崎へ向かって出発しようと思う。それに広布のための活動にもなる。だから題目が完全に不足していても心の中は歓喜で包まれる。

 実際、題目は三唱だけとなると思う。でも広布を目指す行動を諸天は守護してくれると思う。

 

 

wednesday, august,17,2001

 冬子さん。もう1ヶ月を完全に過ぎている。この前、志摩町に西洋住宅を見に行った。夜、そこの営業の人から電話が掛かってきた。日曜日、午後2時にその建て売りの西洋住宅でいろいろな説明などを受けることになった。

 僕には長崎に父と母がいる。諫早の精神科の病院への就職のことも最終決断になってきた。

 

 

monday, august, 22, 2001

 もう僕たちは1ヶ月半が経った。冬子さんも僕を困らせたし、僕も冬子さんを困らせた。

 冬子さんが長崎へ行きたがらない。

 そして自分の信心が惰性に流されている。うつ病が再発してきた。抗うつ薬を飲まないでいた油断だ。朝、なかなか起きることができない。今日も朝、題目三唱だけだった。

 明日からは朝、一時間の題目を実践しようと思う。また今夜、地区リーダーについて活動しようかと考えている。しかし、自分が地区リーダーに附いて活動したって何にもならないという考えもある。

 題目を上げよう。そして池田先生の弟子として恥ずかしくない毎日を送るべきだ。

 

 

Tuseday, august, 23, 2001

 今日、27万円のナショナルのマッサージャーが来たと冬子さんから携帯へ電話があった。今日は当直だ。そのマッサージャーは自分の長年の病気を治してくれるかもしれない。

 

 

Tuseday, Novemver, 6, 2001

 冬子さんが僕の背中の上に乗っていた。僕は首を右に向け、寝ていた。首をこの方向に向け冬子さんを乗せると、首の根本の自分の脊椎の歪みが矯正されるように思えた。逆に向けるとあまり負担を感じない。

 日曜日の夜、もう12時だった。冬子さんは呑気に僕の部屋に来ていた。そしてインターネットの僕のページを見て驚き、また『桃子さん』などという題名がたくさんあるのを見て怒ってもいた。また自分の大学時代の精神的哲学的葛藤を読んで驚いていた。

 その後、横たわる僕の背中に乗ってきて『冬子たんマッサージ』と言って肘を僕の背中に当ててマッサージしてくれていた。とても効いていた。

 もう20年になるかもしれない、自分のもっとも弱点である首元の骨の歪み、これさえ矯正されれば自分の病気は良くなる。

 冬子さんも第3胸椎の横、僕も第3胸椎の横だった。冬子さんの場合は右側で、僕の場合は左側だった。第3胸椎横部の硬結さえ取れるとすべて良くなる、そう思っていた。

 

 結婚して2ヶ月が過ぎた。金曜日の当直のとき、題目上げているとき、どうしようもない冬子さんへの思慕に駆られ冬子さんの携帯に電話した。『やっぱり近田さんの処に行くのは止めます』冬子さんと会いたくてたまらなくなって、そう電話した。煩悩に負けた。また、それが社会的常識であったのかもしれない。

 週末を冬子さんと過ごすため、そう電話した。どうしようもない煩悩の衝動だった。

 

 

Wednseday, Novemver, 9, 2001

 もう僕たちは安定している。問題はマンションを買うか、つまりこのまま前原に住むかどうかという問題である。

 諫早の病院に引っ越す冒険は犯すべきでないと思われる。

 迷う。この迷う時期に信仰がフラフラしている。

 

 

Saturday, November, 24, 2001

 マンションか家を買おうと思う。この地に骨を埋めるか、やはりまだ迷う。

 

            

                                      完

 

 

http://sky.geocities.jp/mmm82888/2975.htm