浜の町の憂鬱 

 

                                                   カメ太郎

 

 

  その物思いはまるで憑依霊のように暗い心象が歩き疲れた僕を覆い包んでしまうように僕の頭に忽然と思い浮かんできた。目の前を歩いてゆく女のコがどうしてもあのコにちがいないと思われた。

 僕は十日ほど前あるとてつもない苦しみに襲われてフラッと家のすぐ近くにある水族館に何年かぶりに入っていったのだがそれの名残りだったのかもしれない。

 それは冬休みが終わろうとしている日のことだった。クリスマスイブからの怒涛のような苦しみがその日またひどくなった。正月に遊びに来ていた従弟も帰りポツンと一人になった僕はまた寂しくてたまらないほどになってきた。そして感傷めいた気分のままふと家の近くの水族館に出かけていった。

 たった一人で人影淋しい水族館を歩くとそこには新婚みたいなカップルが数組と掃除をしている年とったおじいさんしか目につかなかった。外は寒く、また館内も寒かった。でも僕は館内の一画に女優に譬えて言えば坂口良子みたいな魚を見つけた。ウーパールーパー(愛の天使)という変な名前だった。でも目がなんとなく淋しそうだった。実らぬ恋にジッと耐えているような気がした。それはちょうど僕の目のようでもあったし……ああちょうどあのコの瞳にそっくりだと思いついた。高校三年の頃の高総体での女のコのことを思い出していた。それは十日ほど前のクリスマスイブの夜、中学の頃からずっと思いつづけてきた女性と合コンで偶然出会いそのコは僕の親友のMになびいていったという塗炭の苦しさのなかにいた僕が必死で求めていた明るさのためだったのだろう。

 アーケードと電車通りのあいだのクルマが一台やっと通れるほどの狭い裏道だった。菊地さんに似ている彼女の後ろ姿を眺めながら後をつけていくのは決して楽しいものではなかった。あの人がMとつきあっているのだがMとあの人がsexをする……僕は気が狂いそうになるほどの苦しさを味わっていた。後ろ姿とその歩き方があのひとのそれにとても似つかわしくて僕はたまらない悔しさを感じていた。この通りは薄暗くて僕にあの頃のことを思い出させていた。譬えば僕が高校時代学校帰りにいつも通っていた諏訪神社の境内だったり、高三の頃毎日県立図書館で勉強して8時近くに歩いたバス停までの道だったり……

 諏訪神社の境内の風に揺れる老木がこの裏道を囲むビルの壁に映し出されていて僕を囲んでいるような気がした。またこの裏道に停めてあるバイクや積み荷を降ろしているトラックのヘッドライトがこんな昼間なのに点燈していてあの夜8時近くのバス停までの道を彷彿とさせるような感じがして……昼間なのでもちろんヘッドライトは点いてないのだが……目が眩むような気がした。

 

 もう夕暮れだった。もう大学の付近も夕暮れを迎えつつあるんだなあと僕は少し感傷的な気分になっていた。

 昨日、夕暮れの大学のまわりを僕は一人トボトボと歩いていた。近くのOKホームセンターに買物に行っての帰りだった。心のなかは何かで非常に焦っていた。そのため足は非常に早く動かしていた。まるでロボットのように僕は歩いていた。

 僕は以前から気に懸かっていた緑ヶ丘の梺の家の風景をソッと眺めやっていた。なんとなくその貧しそうな家々の並びが失恋で傷付き果てた僕の心にとても似つかわしく思えたから……

 でもそれは墓だった。僕は今までそれを住宅街だとばかり思っていた。貧しげな古い住居群だとばかり思っていた。

 僕はその錯覚が哀しかった。なぜ今まで気づかなかったのだろう。僕はそれを大学2年目が終わろうとしている今日まで気づかなかった。

 

 いつかなにかの雑誌で『都会のなかの孤独』という文章を読んだことがある。なんとなくそんなようだった。僕はアーケードのなかを何かの思い出にしがみついてしがみついて離れない哀しい怨霊みたいなような気がしていた。       

 僕は痩せうなだれていたし、頬が凹んで顔色は青かった。これは死相と言えるのかもしれなかった。『アーケードを歩く死相の少年』という言葉が聞えてくる。僕はアーケードを歩くのは恥かしかった。周囲の目が気になる。歩くのに力みが入る。僕はロボットのように歩いていた。

 でもふとある鏡に映った僕の姿は良かった。その鏡に映った僕の姿は3年半前の思い出を彷彿とさせるように華やかだった。

 僕はふつふつと自信が沸いてきていた。3年半前の思い出が現実味を帯びて蘇ってくる。微笑みが浮かんでくる。クリスマスイブの失恋から落ちこみ自分や世の中を呪い始めていた僕だったけれど…。

 僕はいつか心清々しく歩き始めていた。僕はハンサムなんだ、僕はハンサムなんだ、3年半前のことだって、3年半前松山の国際体育館の薄暗い観客席にうなだれて座っていた僕の目の前に現われた女の子のことだって、僕はあのときもうなだれていてそしてあのコが現われて僕に微笑みかけたのだった。

 僕はいつか自信に溢れてきていた。3年半前の体育館でのあのコの美しさが現実感を帯びて今僕の目のまえに浮かんでくる。そして僕は3年半前彼女が一目惚れしたハンサムな少年だったんだ。

 でもやはり心の重さは消え去らなかった。さっきの鏡は幻だったんでは…という考えも浮かんでくる。もうあの頃の自分ではないんだという気もしてくる。僕は何か不安だった。

 再び『都会のなかの孤独』……という言葉が聞えてきていた。僕はやはり一人ぼっちで歩いていた。

 僕は歩きながら3年半前にもなるあの日の出来事を思い出していた。

——コートでは北側のコートで僕らの東高の試合が始まっていた。河野(僕と一緒に来た友人)は友だちが試合に出ているので北側の長崎東の(たしか川棚高校だったと思うけど)試合を熱心に見ていたけれど、僕は南側の方のコートの試合を見たりしていた。僕らの座っている所はガラ空きで僕らは2人ポツンと座っていた。

 そのときだった。僕のななめ前方5mぐらいの所にとても可愛いとても目の大きい少女が僕を見つめて立っているのに気づいたのは——。ちょっとポッチャリした感じでそして今まで見たこともないほど目が大きくて……。そして今までに見たことがないほど美しい少女だった。

 彼女は始め横顔を見せて立っていた。でも大きな目で僕を見つめて……。今思うけど彼女はそっち側の顔の方が自信があったからだろうと思う。そうして横目で……大きな大きな目で——僕を見つめて立っていた。4分ぐらいそうしていただろう。でも僕は俯いたりコートの方を見たりして知らないフリをし続けた。僕は中学2年の頃から大きな声がでないというノドの病気に罹っていて静かな所以外では女の子と恥づかしくて口がきけなかったから——

 彼女はそして今度は真っすぐに僕を見つめ始めた。横顔で見つめていては駄目なのだろうと思ったのだろう。でも僕は依然として無視し続けていた。でも無視し続けることはとても辛いことだった。彼女より僕の方がきっと何倍も何倍も苦しかったと思う。僕はもし喋りかけられたらどうしようと思って苦しくて苦しくてたまらなかった。

 

 僕は苦しみながらも彼女を僕の記憶のうちの女性の誰かと照らしあわせていた。川崎さん——僕が中三の秋ごろ一目惚れしてラブレターを書いたけど出さなかった川崎さんによく似ている。目の大きさといい顔の輪郭といいよく似ている。川崎さんなのだろうか。僕の胸に三年近くになる思い出が蘇み返ってきていた。また高校二年の後半、昼休みに誰もいない運動場で突然川崎さんへの愛慕の念に駆られて駆け出したあの青春の発作みたいな光景も思い返されてきていた。一度も口をきいたこともなかったけど僕は彼女の青白い肌とちょっとポッチャリとした肉体を体育発表会の予行練習のとき砂場の横に淋しげに立っていた体操着姿のあの光景のままに思い出していた。

 再び彼女に付き添っていた小さい2人の少女が彼女に帰ろうと催促したようだった。でも彼女は『もうちょっと待ってね』とでも言ったようだった。彼女は依然として微笑みつづけていた。

 やがて彼女は僕に背を向けて歩き始めていた。なんだか僕からすべての幸せが去ってゆくような気がしていた。またこれからの苦しみに満ちた年月が始まろうとしているような気もした。彼女が去ってゆくのは僕の少年期が去ってゆきそして僕の青年期が——苦しみに満ちた青年期が——始まるような気がしていた。

 彼女は途中で一回フッと振り向いた。でも僕は試合を見ているフリをするだけだった。寂しげに試合を見ているフリをするだけだった。

 彼女たちは歩いて行っていた。僕からどんどん遠去かっていっていた。

 僕はいつの間にか目を潰っていた。そして目を開けたとき彼女の姿はもうほとんどなかった。ノドの病気が追いやったのだ。彼女のちょっと太めの悲し気な背中が行き先を喪ってオロオロと入口の方で動いているのが見えただけだった。

 

 それから3日間、ボクは狂ったようになって勉強した。将来きっと耳鼻科の医者になると思っていたのだ。——

 

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 やがて彼女はおもちゃ屋の横から小さな2階へ通じる暗い階段を上っていき始めた。そこは喫茶店だった。

 僕は悪魔のような重いドアをぐっと押した。そこはちょっと暗い暗い洞窟で、彼女が男と密会する所なのかな。僕は彼女からちょっと離れた所に腰かけた。

 そこは窓辺で茶色い茶色い透明なガラスが貼ってあってそこからアーケードを行く男女の姿がよく見えた。彼らはまるで異性のあとを付けているように歩いててみんな僕と同じなのかな。僕は一瞬不思議な気がした。

 それは何かの羅列のようだった。ふとそれらが古生虫の群れにオーバーラップされてきて僕を不思議がらせた。あっ、みんな古生虫なんだ。古生虫にそっくりだ。その歩き方といい、その集団としての動きといい、まるでみんな虫けらのように動いているじゃないか。そうだ。みんな古生虫なんだ。みんな古生虫の顔をしているじゃないか。前の人の歩くのに自分も任せて動いているじゃないか。

 僕らはずっとずっと昔に生きていた古生虫なんだ。僕らは10本足の古生虫。アーケードを歩く古生虫。

 僕らのうしろには女の子や男がひしめいていて、僕らは異性のフェロモンの香りに引かれて歩いている。僕らは古生虫で(とくに僕は苦しむだけの古生虫で)宇宙にとってちっぽけなちっぽけな存在なんだ。僕らは悲しい古生虫。僕らは蠢く古生虫。

 

 僕は自分の発見に知らず知らず微笑していた。僕ら虫けらなんだ。そうだ。僕ら虫けらなんだ。僕だって…そして目の前の彼女だって。それにあいつだって。そしてあいつに走った桃子さんだって。

 僕らの苦しみは虫けらの苦しみでそして僕らの楽しみも虫けらの楽しみでそして僕らの一日は虫けらの一日なんだ。

 僕は哲学者のような微笑みを窓外に向けた。

 この長崎が突然白亜期やジュラ期に後戻りしてそして眼下の蠢く彼らが古生虫に変身するんだ。眼下に蠢く彼らは実は何千万年前もいまのような配列でこの辺をこのようにうろついていたのかもしれない。いやうろついていたんだ。虫けらの意識で——虫けらの足跡で。また僕の菊池さんに対するイメージもすでにその頃から形成されていてあのテニスで鍛えた褐色の肢体に僕が虫けらのようにあこがれてそして恋に敗北することも。みんなすべて古生代から予定されていたことだったんだ。

 

 彼女は出て行った。なぜ出て行ったのだろう。彼女は僕に背を向けるように出て行った。誰か男を待っている…という僕の憶測ははずれた。彼女は一人で出て行った。

 僕は彼女のあとをつけてゆくように喫茶店から出て行った。彼女は何のためにこの日曜日浜の町をうろついいるのだろう。僕には不思議だった。

 そして何のために喫茶店に入ったのだろう。たった10分間しか居ないでコーヒーに300円ぐらいも払って何処に行くというのだろう。

 僕は彼女が何かの特別の使命を帯びた北朝鮮の工作員のようにも思えた。そして僕はスパイをつける秘密工作員のようにも思えて得意になっていた。

 僕は彼女が店を出るとすぐに立ち上がってレジーでお金を払って彼女のあとをつけ始めた。だいぶ離れてしまったけど彼女の姿は美しさに輝いていてすぐ一目で解った。赤い赤いデメキンの女性が揺れながら浜ノ町のアーケード街を歩いているのが喫茶店から降りる途中の階段からすぐに見えた。

 彼女は北朝鮮の工作員で僕は日本の特捜員なんだ。007のような特捜員なんだ。

 

  すると僕はゆらゆらと揺れる赤い水槽の中に吸い込まれていったようだった。

 ここは何処なのだろう。僕は彼女の催眠術にかかって(彼女のちょっと太めの背中から出る電源みたいなものから)しまったようだった。そして僕は階段を下り終えるとすぐに大理石のようなアーケードの道に倒れ込んでしまった。

 

 何処なのだろう。不思議な処を泳いでいるようだった。ここは何処なのだろう。僕は青い青い海の底に沈んでいっているらしかった。そして僕はいつのまにか青い水晶のような岩になってしまって僕の表面には色とりどりの海草が生い茂り始めたようだった。

 

 そして僕の意識は薄れ出し、僕は死んだらしかった。あのクリスマスイブの夜以来、何度も自殺を謀ろうとした僕は遂に本当に死んでしまったらしかった。首吊りの後遺症としてだろう。首吊りの後遺症が喫茶店からの暗い階段を下り終えると途端に出てきたらしかった。

 

 僕は暗い紫色の世界へ入っていった。そして僕は霊魂だけで朱色のドレスを着た赤いデメキンのような彼女の後ろを浮かびながら(そして喜びながら)つけているらしかった。僕は霊魂となって(肉体の僕は喫茶店の階段の入り口に人だかりを造って倒れ伏して)彼女のあとをつけていた。僕は浮遊霊となったらしかった。アーケード街を飛ぶ浮遊霊となったらしかった。

 

 くるくると目まいがして僕が地に倒れる。たくさんの行き過ぎるアーケードの鏡のような路の上に僕が倒れる。

 まるで背中にたくさんの過去のノドの病気の故に行きすごした本当なら輝いていて楽しかったはずの幾つかの美しい女のコとの思い出が空想として走馬燈のように駆けてゆく。中三のころの桃子さん。高二の頃のあのコ。そして高三の頃のスクールバスでの二つ年下のあのコたち。そしてこのまえのクリスマスイブの夜の菊池さん。また高三の高総体でのあのコ。

 ああ、彼女が去ってゆく。僕から去ってゆく。悲しい悲しいいつもの別れのときがやって来る。中学時代より愛してきた僕の(僕の単なる悲しい片思いにすぎないのではあったけど)あの悲しいクリスマスの夜の再現のような気もしたし、あのクリスマスの夜からの桃子さんが僕の親友に走ったという怒涛のような悲しみは。ああ、どうなってしまうんだ。

 

 王子は倒れる 人々の騒めくアーケードのまんまんなかに

 王子は血を吐くように倒れた 光る大理石状の道の上に

 はっと振り返るデメキン王女 でも人々は王子を取り囲み

 デメキン王女に王子の倒れた姿は見えません

 王女は再び歩いてゆかれました

 何事が起こったか知らずに依然として水の中を泳ぐように

 

 

 

                完 

 

http://sky.geocities.jp/mmm82888/2975.htm