聖子ちゃん

 

 

 聖子ちゃん、敏郎兄ちゃんは知らなかったんだ、聖子ちゃんが結婚しないで待っていてくれたことを。 敏郎兄ちゃんは何も知らなかった、一度で良い、一度で良いから、仕事帰りに聖子ちゃんの実家に寄れば、そうしたら僕たちは会えていて、そうして結婚に至ったのだろうけど、敏郎兄ちゃんは面倒くさがって、一度も依らなかった。一度、一度で良いから、依っていたら良かったんだ。そうしたら僕たちは幸せになっていたはずだ。一度で良い、一度で良いから、仕事帰りに聖子ちゃんの実家に依っていれば、こういうことにはならなかった。今のどん底の不幸には陥ることはなかった。一度で良い、一度で良かったのに、面倒くさがり屋の敏郎兄ちゃんは依らなかった。

 

 敏郎兄ちゃんは頭を抱えて後悔している。一度で良い、一度で良いから、仕事帰りに聖子ちゃんの実家に依っていれば良かったんだ。勤務先から聖子ちゃんの実家はすぐ近くだ。すぐ近くだったのに。すぐ近くだったのに。

 

 聖子ちゃんは僕より10歳ぐらい年下だったと思う。一浪して入ったとき、聖子ちゃんは小学4年生だった。敏郎兄ちゃんが「家からでは遠い、下宿する」と言ってアパートを探して下宿というか間借りというかを始めたときがあった。あのとき、僕の家の店に聖子ちゃんのお母さんが手伝いに来ていた。そうして聖子ちゃんが引っ越しの手伝いや間借りというか下宿というか部屋の掃除にも来てくれると言っていたと母から聞いた。あの頃、聖子ちゃんは小学4年生だった。加津佐の実家で会ったとき、小学4年生だったんだね。

 

 馬鹿な僕はとんでもない結婚をして今、とんでもない不幸のどん底だ。欺された。欺されたんだ。僕は今まで欺され続けてきた連続だった。馬鹿な敏郎兄ちゃんは欺されてばかりだった。

 

 敏郎兄ちゃんはその頃、創価学会の信仰に凝っていたんだ。馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。創価学会の信仰に凝って、創価学会員ととしか結婚しないと主張していた馬鹿な敏郎兄ちゃんだった。でも、聖子ちゃんだったら別だっただろう。聖子ちゃんが結婚しないで待っていると知ったら、僕は聖子ちゃんの下へ駆けつけていただろう。敏郎兄ちゃんはあのとき42歳だったと思う。離婚して、たしか42歳だった。

 

 聖子ちゃん、でも、敏郎兄ちゃんにも、ちゃんとした結婚をすることが出来ていた時期があった。でも、馬鹿な敏郎兄ちゃんは創価学会の信仰に凝っていて、創価学会員つまり女子部としか結婚しないと馬鹿な主張をしていたんだ。

 

 でも、一度、敏郎兄ちゃんが38歳ぐらいだったと思う、アパートの一人暮らしに疲れ、僕は、聖子ちゃんか美佐子ちゃんに結婚を申し込む手紙を書こうと思い立ったときがあった。でも、住所が分からなかったから書かなかったようだ。書こう、書こう、と何度も思った、何度も思ったのだけど、書かなかったんだ。書かなかったんだ。書けば良かったんだ。加津佐の基家(加津佐の爺ちゃんの家)の住所は知っていたから(たしか毎年、年賀状を出していたようにも思う)思い切って、書いて、出せば、良かったんだ。書いて、出せば、良かったんだ。ÉÉ聖子ちゃん、敏郎兄ちゃんは頭を抱え込んで後悔している。54歳になった敏郎兄ちゃんだけど、人生を後悔して、後悔して、ÉÉ苦しくて苦しくてÉÉもう駄目だ。

 

 あのとき、38歳の時、手紙を書いて出そうと思い立ったとき、思い切って、書いて、出していれば良かったんだ。そうしたら全てが解決していた。少なくとも僕は今は不幸のどん底に居る。不幸のどん底に居る。

 

 38歳の時、一人暮らしのアパートの中で、敏郎兄ちゃんは思った。「美佐子ちゃんと聖子ちゃんに手紙を出そう、2人のうち、1人は結婚しないで居るだろう」と。

 僕はそう思った。馬鹿な敏郎兄ちゃんはそう思った。でも、躊躇いながら、手紙はたしか書かなかったと思う。書いたならばパソコンで書いて、小さなハードデスクの中に今、入っているはずだ。今は、フォーマット方式が変わっていて、読み出せないけど、書いていないと記憶する。書いていないんだ。馬鹿な敏郎兄ちゃんは書かなかったんだ。書きさえすれば、爺ちゃんの実家に手紙を出せば、それで良かったんだ。美佐子ちゃんは結婚していたらしい。しかし、聖子ちゃんは結婚していなかった。馬鹿だ、馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。

 

 敏郎兄ちゃんはそれから数年して、創価学会を実質辞めて、今は「シルバーバーチの霊訓」を信仰している。お金は全く掛からないけど、ÉÉでも厳しい信仰だ。実生活を真面目に生きることが全てという信仰だ。

 

 聖子ちゃんとあのとき、結婚していたら、つまり敏郎兄ちゃんが一度目の結婚に失敗して(10歳年上で子供を産むことが不可能な年齢の女性と馬鹿な結婚をして)一人っきりになったとき、僕は仕事帰りに(その頃は当直が多かったけど、朝9時だったら、聖子ちゃんの実家には敏郎兄ちゃんの叔母に当たる聖子ちゃんの母が居たはずだ。そうして聖子ちゃんが未だ結婚していないことを知ったはずだ。また、夕方の帰りだったら、聖子ちゃんも居たかもしれない)ÉÉ

 

 悔やんでも悔やみきれない。今のどん底な生活を思うとÉÉ母がしっかりしていたら良かったんだÉÉと馬鹿な敏郎兄ちゃんは愚痴を言う。ÉÉ馬鹿な馬鹿な敏郎兄ちゃんで、悔やんでも悔やみきれない。泣きたいけど、涙は涸れている。泣きたいけどÉÉ 泣いて、どうなるものでもない。

 

 聖子ちゃんは僕が僕の息子(当時、2歳ぐらいだったと思う)と僕の実家で寝ていたとき、聖子ちゃんの母が来た。そして聖子ちゃんも同乗しているということで聖子ちゃんも来た。聖子ちゃんの両手には生まれたばかりの子供が抱かれていた。ああ、久しぶりに(おそらく僕が大学1年以来)見る聖子ちゃんだった。そしてそれ以来、会っていない。

 

 もう、どんなにしたら、良いのだろう。僕には分からない。僕は人生の辻辻で失敗ばかりしてきた。大事なときは失敗する馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。もう54歳になっている。あと数ヶ月で55歳になる。もう遅い。

 

 今でも実家で息子と寝ていたときに来た聖子ちゃんの姿をありありと想い出すことが出来る。生まれたばかりの子供を抱いていた聖子ちゃん。聖子ちゃんは6歳年下の男性と結婚したと母から聞いた。それまで何故か結婚しないで居たと。(あれは何年前のことになるだろう。息子が今、小学5年生で10歳だから、8年前のことになると思う。聖子ちゃんは敏郎兄ちゃんが結婚した後に結婚したんだね。馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。)

 

ÉÉ人生を思って、人生を振り返って、後悔の念に沈んでばかり居る馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。馬鹿な馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。

 

 思えば、母も、結婚を後悔して、80歳に成って嘆いている。いや、母は未だ79歳だろう。母も、不幸な結婚をした。そうして苦労の連続の人生だった。息子の僕も全く同じだ。これを宿命と言うのか、同じ後悔をしている。

 

 母も本当なら幸せになることが出来たのに、馬鹿な結婚をした。そして、それと同じ馬鹿な結婚をした息子の僕だ。

僕は、母が、もう少ししっかりしていてくれたら、不幸な結婚はしなくて済んだのにと愚痴を言いたい。

 

 人生の綱渡りが下手すぎる馬鹿な僕だった。後戻りはできない。もう54歳だ。3日連続の当直が終わって帰るけど、家に待っているのが聖子ちゃんだったら、聖子ちゃんだったら、どんなに良いだろうと、後悔の念に浸ってパソコンに向かってキーボードを叩いている馬鹿な敏郎兄ちゃんだ。

 

 あのとき、38歳の時、手紙を書いていたら良かったんだ。または、離婚した後、聖子ちゃんの実家に一度で良いから、仕事帰りに依ったら良かったんだ。職場のすぐ近くが聖子ちゃんの実家なのに、一度も依らなかった馬鹿な僕だ。

 

 もう遅い、ふり返ることはいけないことだ。人生は前だけを見ていなければいけない。後ろをふり返ってはいけないんだ。

 

 一度、たった一度で良いから、仕事帰りに聖子ちゃんの実家に依ったら、そうしたら幸せになっていたはずだ。後悔しても後悔しきれない。

(実は、聖子ちゃんの他にも悔やむことは幾つかある。最低のくじを引いてしまって後悔してしまっている今の僕だ。もう戻れない過去だ。あのとき、僕たちが結婚していたら、劇的な結婚になっていて、そうして今は幸せだったに違いない。人から欺され続けた僕の人生の一端だ。38歳の時、一人暮らしのアパートの中で、聖子ちゃんに手紙を書こうと思ったのに、多分、書かなくて出さなかった馬鹿な僕だ。あのとき書いて出していたら良かったのに。

 記憶の端に、手紙を書きかけたけど辞めたことが想い出される。何故、止めたんだ。書き続けたら良かったのに。あれはパソコンではなく、紙の手紙に書き始めたと記憶する。何故、止めたんだ。

 聖子ちゃんも子供が9歳になっているだろう。もう、戻れない。)

 

(敏郎兄ちゃんは苦しくて、悔しくて、魚釣りに凝っている。魚釣りに逃げていると言って良いだろう。こうするしか、この後悔の念から逃れることが出来ない。魚釣りに凝っているのは、これが大きな原因だ。誰にも分からないだろうけど、ÉÉ

 でも、今日は、魚釣りには行かないだろう。余りにも悔しくて、悔し紛れに寝ているだろう。54歳になった敏郎兄ちゃんはもう体力が弱くなっている。魚釣りに行くのも大変になってきている。)  

 

(子供が出来たら、もう人生は終わりだ。このことに今、気付いた。子供が出来ると後戻りできない。でも、子供のせいにする訳にはいかない。悪いのは自分なのだから。そして注意が足りなかった親もまた悪いけど、主に悪いのは自分なのだから。自分がほとんど悪いんだ。帰りがけ、一度で良いから、聖子ちゃんの実家に依ったら良かったんだ。職場からすぐ近くなのに依らなかった僕が悪いんだ。)

 

(子供のせいにしてはいけない。自分が全て悪いんだ。自分が全て悪いんだ。自分が全て悪いんだ。もう戻れないことだ。戻れないÉÉ戻れないÉÉ戻れないÉÉ)

 

(諦めるしか無いことであるが敏郎兄ちゃんは今もメソメソと悔やんでいる。聖子ちゃんと結婚していたら、どんなに幸せだっただろう。敏郎兄ちゃんは幸せではない。聖子ちゃんはそのことを見通して、あの日、僕が息子と奥の部屋で寝ていたとき、会いに来たのだろう。僕たちは何も喋らずに見合っていた。喋ることがなかったし、喋ることが出来なかった。僕は2歳か1歳の息子と寝ていた。聖子ちゃんは赤ん坊を抱いていた。僕は喋ることは出来なかった。)

 

(聖子ちゃん、敏郎兄ちゃんは行き詰まって(家庭が真っ暗で)世界が破滅することや自殺を考えているのです)

 

(聖子ちゃん、敏郎兄ちゃんはあまりの苦しさに、逃げ出そうとも考えている。家では怒声しか聞こえない。もう限界だ。)

 

(完)